舌先で、踊る
 遊星が頬に一線の赤い筋を作って帰ってきた。よく見れば服も随分と汚れていることから、ただごとではないことは明白で、ジャックは何事もなかったかのように振舞う遊星に歩み寄り、問い詰めた。

「何があった」
「………転んだ」
「ほう、石や砂利でここまで真っ直ぐな傷ができるものなのか?」

 ジャックが頬の赤い筋に触れれば、遊星は痛みからか嫌悪だからか分からない苦痛の表情で顔を歪めた。
 遊星はきっと何も語らないだろうが、大体の予想はキングのなかでもう出来上がっている。サテライトに法や治安などあってないようなものだ。気に食わなければすぐに暴力に訴える愚かな輩で溢れかえっている。遊星はそれに絡まれたに違いない。普段は何も言わないくせに、言いたいことだけはしっかり言う。遊星が本人の意図せぬところで妬まれていることは知っていたが、まさか刃物まで持ち出すとは。サテライトも堕ちたものだとジャックは内心蔑んだ。
 そして、遊星に対し、ジャックは諭すように言う。

「大事に至らなかったからいいものの。これからはあまり、一人で出歩くな」
「……何故、お前のいうことを聞かなければならない」

 なかなか懐かない黒猫が威嚇するようなするどい遊星の視線が刺さるが、ジャックはまったく気にせず顔を近づけて、耳元で囁く。

「自分のモノに勝手に傷をつけられては不愉快だ、そうだろう?」
「………ふざけるな」

 ジャックの手を振り払い、その場から離れようとする遊星だったが再びジャックの手に捕まり、ムリヤリこちらを向かされる。ジャックがしつこく自分に絡んでくるときは大概ろくでもないことをする前兆だということを、遊星は短い同居生活のうちですでに感じ取っていた。

「離せ」
「手当てくらいさせろ。化膿でもしたらどうする」

 どうせどこで拾ってきたからも分からないナイフだとジャックは言うが、遊星が大人しく言うことを聞くはずがない。自分から逃れようとする遊星を押さえるために、ジャックは相手を閉じ込めるように自身の手を壁についた。

「遊星……いい加減、言うことを聞け」
「……こんなもの、唾でもつけておけば治る」
「唾。――あぁ、そうだな」

 その瞬間、ジャックが低く笑ったことに遊星は気づいたときにはもうことはおきていた。

 遊星の頬に生暖かいものがゆっくり触れる。
 それが自分の傷口をなぞり終えるまで、遊星はその場に凍り付いたまま動けなかった。そして、目の前には至極愉快そうなジャックの顔。
 遊星は、感情のままジャックの顔を殴り飛ばしていた。

「なにを、する…!」
「唾をつけておけば、治る。そういったのはお前のほうだろう?」

 殴られた頬に手を当てつつも、ジャックはくっくっと笑う。遊星が感情を見せるたびに、ジャックはそう笑うのだ。その顔をみると遊星は自分がジャックの手のひらに踊らされているだけではないかという考えに駆られる。


 やはり、こいつは苦手だ。

 遊星はそう思いながら、今度こそ踵を返す。
 舐められた箇所が熱く感じるのを、気のせいだと自身に言い聞かせながら。



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