たびだちのうた
「――鬼柳!」
 霧深い早朝、隠れるように一人Dホイールの最終調整をしていた鬼柳はその声で振り返る。そして、息を切らして走ってきた相手を見て、軽く手を上げた。
「よう、クロウ。やけに早起きだな」
「それはこっちのセリフだってーの。……もう、行くのかよ」
 Dホイールに注がれたクロウの視線に鬼柳は小さく笑い、肯定する。本当なら、誰にも気づかれることなく旅立つつもりだったと付け加えると、クロウの顔が途端に不満げに歪んだ。
「なんだそれ。まるで夜逃げじゃねぇかよ」
「そういうつもりはねぇんだけどな……ただ、ちょっと、流石に恥ずかしくって」
 見上げてくるクロウの瞳から思わず顔をそむけた鬼柳は、照れ隠しに頬を掻く。
 ネオドミノ全土を巻き込んだ、シグナーとダークシグナーの戦いが終結して数ヶ月。シティとサテライトの垣根がなくなった世界はまたもとの平穏に戻りつつあった。地縛神の支配から解放されたダークシグナーたちも、それぞれの道を歩み始めている。そして、それは鬼柳も同じだった。

 サテライトを出て、広い世界を見たい

 鬼柳がそう言い出したのは、別段おかしいことではない。元から、サテライトから逃れたいと思い続けていた故に、妥協案としてここで満足するための方法を模索してきた男だ。仲間が夢をかなえることはクロウにとって素直に嬉しい。だからこそ鬼柳がこっそりと旅立とうとするのがクロウは許せなかった。
「仲間だろ、そういう水臭せぇことしてんじゃねーよ」
「……なんとなく、一人で出て行きたい気分だったんだよ」
 きまずそうに顔を背けたままな鬼柳に、クロウは自分の髪の毛を荒っぽく撫でると小さく息を吐いた。ダークシグナーのときの記憶は殆どないものの、鬼柳は自分が遊星たちに対して酷いことをしてしまったという自覚だけはあるらしい。そして、同時に鬼柳はそれを深く悔やんでいる。
「一応、言っておくがよ鬼柳。遊星も、ジャックも、俺も、誰一人お前のことを責める奴なんていねぇ」
「……ああ」
「だから、お前が気をやむことなんてねぇんだよ。鬼柳」
 ぶっきら棒に告げられたクロウの言葉に、鬼柳はゆっくりとこちらを向き、静かに笑ってみせる。そして、その顔を認めたクロウも満足そうに笑顔を見せた。
「じゃ、これは俺からの餞別な」
 クロウはそういって、ポケットから何かを取り出すと手早く鬼柳の手のひらへ握らせ、押し付ける。何かと思って、手のひらを広げた鬼柳はその瞬間言葉を失った。
「デッキなしで何しに行くつもりだ、お前は」
「これっ、どこで!!」
 束になったカードを一枚、一枚確認しながら鬼柳は震える声でそう問いかける。クロウに手渡されたそれは、間違いなくあの時に押収されたはずの鬼柳のデッキ。鬼柳が一枚の欠けもないそれとクロウの顔を交互に見遣っていると、クロウは観念したように自身の髪の毛を掻き撫でた。
「……あのあとよ、セキュリティーの保管庫に何度か忍びこんでようやく見つけたんだ。本当なら、お前が出所してきたらすぐにでも返してやるつもりだったんが」
 まさか、こんなに時間がかかっちまうとはなと今度はクロウが頬を掻く。その頬には鬼柳には見覚えのないマーカーがはっきりと刻印されていた。それは、クロウが今までに渡ってきた危険な橋の数と同じ。マーカーの痛みは、実際に経験した鬼柳も良く知っているが、クロウは鬼柳のためにこのデッキを取り戻そうと何度もそれを味わっていたのだ。
 そう思うと、目の前の彼が愛しくて堪らなくなり、鬼柳は本能のままにクロウを抱きしめていた。
「っおい! いきなりひっつくんじゃねぇ!」
「……クロウ、あのさ。もし、俺がクロウも一緒についてきて欲しいっていったらどうする?」
「断る」
「即答かよー……」
 分かっていたこととはいえ、即座に返されたクロウの言葉に鬼柳は頭をたれる。鬼柳にとては一世一代の告白でいっても過言ではなかったため、そのショックは計り知れない。
「ガキの世話もあるし、何かよくわかんねぇけど俺もシグナー……だったか、そんなのになっちまったみたいでしばらくここから離れられそうにないんだわ」
「あぁ、うん……そっか。そうだよなぁ」
 つらつらと述べられたクロウの理由に納得しながらも、鬼柳はショックから立ち直れずにいた。やはり、一人で出て行けばよかったと鬼柳が思い始めたとき、クロウがまたおもむろに口を開いた。

「それに、俺がここ離れたら……誰がお前におかえりって言うんだよ」

 独り言のように呟かれたそれは、鬼柳の思考を数秒止めるには十分すぎるほど強力。今更ながら、その事実に気がついたクロウが顔を真っ赤にして、「今のはなし!」と叫ぶがそのときには全てが遅かった。
「あーもう! 本当クロウ好きだ! やっぱり旅出るのやめる!!」
「馬鹿野郎! さっさと出てけ!!」
 そんなぎゃあぎゃあとしたやり取りを二人が繰り返している間には、もう朝の日は上っており朝霧を眩しく照らしていた。