握った手は解かない
 マーサの家にいる子供たちは、年長になると日替わりで当番を与えられる。とはいっても、料理をするマーサの手伝い、部屋の掃除、洗濯物の取り込みといった軽いものがほとんどで今日、遊星は夕方の花の水遣り当番であった。
 マーサの趣味で作られた小さな花壇には、様々な色が溢れ返り華やかに彩られている。その花々へ遊星は如雨露を使い、丁寧に水を与えていった。本来ならば、花壇の水遣り用の園芸ホースがあるのだが、以前子供たちがふざけて花壇を水浸しにしてしまってからは使用禁止になっている。
 花壇の半分まで水を遣ったところで如雨露の水が空っぽになってしまったことに気づいた遊星は最後の一滴を花びらの上に落とすと、水を補給しに水道へ戻ることにした。外の水道は農具倉庫の表に引いてあり、子供たちの遊び場から少し離れていることもあって普段から人気はまったくといっていいほどない。それに、今は日没近い夕方なのだからなおさらだ。さび付いて動きの悪い蛇口を力強くひねれば、大きな音を立てながら如雨露の中へ水が吸い込まれていく。水がたまるまでの間、遊星がぼんやりと中身を眺めていると、水とは違う音がかすかに耳へはいってきた。蛇口を締め、もう一度耳を傾ければ今度ははっきりとその音が聞こえる。嗚咽を押し殺し、小さくすすり泣くような声にすぐ合点がついた遊星は倉庫の裏を覗き込む。すると、そこには遊星の予想通り、物陰に座り込んで両手で顔を覆っているオレンジの頭があった。

「クロウ」

 遊星がそう呼びかければ、クロウの両肩がびくりと震える。そして、恐る恐る両手を外し、真っ赤に泣きはらした目で遊星を見上げた。
「ゆう、せ」
「どうしたんだ、こんなところで」
 またジャックに嫌な事を言われたのか?
 そう遊星は問いかけてみるが、クロウは小さく首を振る。だが、クロウは本当の理由を語らないまま、腕で涙を拭うばかりである。
「怪我をしたのか? 気持ちが悪いのか?」
「……こな、いで」
 不思議に思った遊星が近づこうとするが、クロウはそれを震えた声で拒絶する。そして、またぽろぽろと泣き出してしまったクロウに、遊星はしばし困惑するがクロウの足元に広がっている小さな水溜りとズボンの染みでようやすすべてを把握することが出来た。

「………また、おもらししたのか」

 クロウは無言ではあったものの、一度だけ小さくうなずいた。


 クロウは元からマーサにお世話になっている遊星たちとは違い、最近になってここにやってきた子供だ。ずっと一人ぼっちで過ごしてきたため、弱冠人見知りのあったクロウだがすぐに打ち解け、遊星やジャック以外の子供たちとも遊ぶようになった。だが、それと時間を同じくして、クロウはたまにこういった人気のないところに隠れてはお漏らしをしてしまうようになった。トイレの場所が分からないわけでも、我慢できなかったわけでもない、なぜかしてしまうのだ。泣きながら、クロウがそういっていたことを遊星はちゃんと覚えている。マーサも、クロウのお漏らしの原因が環境の変化や精神的なものであると理解しているためか、大きくなればじきに治るだろうと、咎めたりすることはなかった。
 遊星は何も言わずクロウに歩み寄り、その湿った手を迷わず握ると立つように促した。
「ゆうせぇ……」
「マーサに言ってきがえてこよう。そのままだと、ベタベタして気持ち悪くなるだろう?」
 遊星は優しくクロウの手を引くが、クロウはその場に立ち尽くしたまま歩こうとしない。遊星がもう一度手を引っ張っても、クロウはわずかに首を振るだけである。
「いや、だ」
 ぽつりと呟いたその言葉に、遊星は首を傾げた。
「何が、いやなんだ?」
「……おもらししたことがバレたら、またジャックにバカにされる」
 すんと鼻を鳴らしたあと、クロウは消え入りそうな声でそう答えた。
 遊星のもう一人の親友であるジャックは良くも悪くもはっきりした子供で、それゆえにクロウのオドオドとしたところや、危なげなところが気に触って仕方がないらしい。ことあるごとに、きつい言葉をぶつけてはクロウを泣かせることがあった。前にクロウがお漏らしをしたときも、「クロウはまだオムツをしていたほうがいいんじゃないのか」と容赦ない嫌味を言い放っていたことは記憶に新しい。クロウはそれを恐れて戻りたくないという。だが、このままクロウを放っておくわけにはいかない。困った遊星が何かいい案はないものかと、あたりを見渡せばすぐに飛び込んできたのは先ほどまで使っていた水道。そして、その周りに無造作に這っていたあるものを見つけ、遊星はある名案を思いつく。
「クロウ、ジャックにバカにされなくてもいい方法があるぞ」
 遊星が拾い上げたそれを、クロウは目をぱちぱちさせながら凝視した。



 そのあと、マーサハウスはちょっとした騒ぎになった。全身ずぶぬれのクロウと、それに連れ添うように帰ってきた遊星。話によれば、遊星が花の水遣り中、ズルをしようとしてホースを使ってしまったのだが、上手く扱うことが出来ず運悪くクロウに水がかかってしまったのだと言う。当然、遊星はマーサに酷く叱られ、あげくに今晩の夕飯も抜きにされてしまった。ジャックはそんな遊星に何か嫌味らしきことを言っていたが、すぐに面白くなさそうな顔をして、自分の部屋に戻っていった。




「ゆうせい、起きてる?」
 空腹に耐えるため、早くからベッドに入ってまどろんでいた遊星は、その声にすぐ意識を戻し状態を起こす。そこには、申し訳なさそうな表情を浮かべ、遊星を覗き込む顔があった。
「クロウか」
「ごめん、おれのせいで……ゆうせいは悪くないのに」
 俯いたまま、ぽつりぽつりと謝罪の言葉を口にするクロウに遊星は気にするなとだけ伝えて、寝返りを打つ。
「クロウはおれの友達だから、友達を守るのはあたりまえだ」
「ともだち……」
「おれはそう思っていたんだが、クロウは違うのか?」
 半分からかいの意味も含めて、遊星がそう尋ねればクロウは勢いよく首を横に振る。そして、感極まったようにクロウは遊星の身体に腕を伸ばすと、そのままぎゅっと抱きついた。さきに風呂にはいってきたのだろう、石鹸の匂いが遊星の鼻腔を掠める。
「クロ……」
「おれ……おれ、この先何があってもゆうせいの友達だから。だから、今度はぜったいおれがゆうせいを守るから」
 抱きしめる腕を緩ませることなく告げられた言葉は、いつものクロウとは思えないほどはっきりとして、決意に満ちている。いつもこんな感じであれば、ジャックもバカにしないのではないかと遊星は思ったがあえてそこには触れなかった。
「分かった、頼りにしている」
 遊星も同じようにクロウの身体に腕を回し、ぽんぽんと背中をなでる。そして、そのままの形でベッドに倒れこんだ二人は、朝までその腕を解くことはなかった。